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萱二について

  萱町の沿革
江戸時代初期には、萱(かや)町、紺屋(こんや)町、樽屋(たるや)町、利屋(とぎや)町の4町あり、後発の萱町以外は免租地(年貢を納めなくても良い土地)でした。幕末の頃に全て萱町の町名に統合され、南から北へ1~7丁目に分けられました。
この時代までは百姓はかわらで屋根を葺くことが禁じられていたためほとんどが茅葺きで、この茅を商う商人が多く住んでいたので萱町の名が付いた説と石手川が萱町付近を流れていたので茅町→萱町という説があります。(下図参照)
幕末頃から指物大工が沢山住むむようになり、明治頃からタンスのまちともいわれていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

松山百店会会報誌の記事(1997年)とS37の地図です。クリックしてご覧ください。

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(By一矢光一写真)

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